早くも最終日、三日目の朝がやって来た。

昨日のテケテケ旅で両腕が真っ赤に日焼けし、ヒリヒリ痛む。 
それほど極端な熱さを感じる事もなかった疾走の旅・・・

その爽快感に甘んじて、沖縄の日差しに無防備過ぎた。 
この日は多少の熱さも我慢して長袖シャツでの外出とする。

こんな調子では・・・と恐れをなして、この日予定していた海水浴・日光浴も中止した。
まだ肌寒さの残る東京とは、そのギャップが大き過ぎ、真っ黒に日焼けしたテケテケの姿を
思い描く事が出来なかったのだ。

この日のスタートも午前9時・・・
331号線で、ひたすら南を目指す事にする。



先ずはガソリンスタンドを探しつつ、那覇空港へテケテケ開始。

空港脇スグのところに、建設中のモノレール
「ゆいレール」の始発駅がある。

ここからバスターミナルのある「旭橋」、国際通りの始終端を
挟み込むような位置に「県庁前」「牧志」などを経由して
「首里」までを結ぶ計画になっている。(2003年開業予定)

沖縄初の鉄道となる「ゆいレール」の開業を機に、
「沖縄タイム」と呼ばれるファジーな時間感覚が修正され、
「秒」という“新しい概念”が誕生するのだろうか?
それもまた、何となく淋しく感じてしまう。


そんなこんなの事を思いながら、この日の最初の目的地を
瀬長島に決めた。昨日渡る事の出来なかった「瀬底島」の
代わりと言ってはもっともらしくもあるのだが・・・

瀬長島は那覇空港からも程近い無人島で、離発着する
飛行機を眼前に見る事ができる。

テケテケはココで今日の朝食をとることにした・・・
「朝食」とは言っても、何の変哲も無いカップラーメン。
たまたま見つけた自販機でふと思い立った。

語り尽くした事ではあるが、非日常の空間では
何を食べても美味しいものだ。




快速・テケテケ号は、こんなに細い道だってス〜イスイ。

道案内の立て札を探しながらの進行だーい。
だけど、帰り道を探すのには苦労したよ。(^_^;)

目指すは、沖縄本島最南端・喜屋武岬(きゃんみさき)。

険しい断崖絶壁とコバルトブルーの海が広がる景勝地で、打ち寄せる波が描くグラデーションの
美しい海岸だが、沖縄戦では逃げ場を失った人々がこの絶壁から身を投げたという悲劇の岬でもあるそうだ。

東シナ海にせり出すように位置していて、太平洋と東シナ海を分けるポイントにもなっています。

記念写真を終えたテケテケは、ここまで来た
「ついで」もあって、詳しくもない具志川城跡を
経由して次なる目的地「ひめゆりの塔」へ移動した。


「ひめゆりの塔」
1945(昭和20)年6月の沖縄戦の際に、悲劇的な最期を迎えた「ひめゆり学徒隊」。
従軍看護婦として動員された彼女達は沖縄師範学校女子部の生徒・職員だった。
この、ひめゆり学徒隊219名の慰霊塔である「ひめゆりの塔」は、戦争の悲劇を語り継ぐ証でもあり、
塔のそばには少女達が自決した壕も残っています。


併設される資料館には、219名の幼き顔写真とともに、
彼女らの日記が展示されています。

テケテケも次なる目的地への時間を気にしながらも、
しばし残酷な運命を負わされた彼女達の悲痛な声に
聞き入った・・・

そして今話題の「有事立法」は、ひめゆりの少女達の
悲劇を、再び繰り返す恐れがあるとして、今なお
生存する“少女”が訴えかけておられました。 

修学旅行に集まる学生達にも伝わっ
ていると良いんだけど・・・



平和祈念公園


式典広場
ひめゆり達の悲劇が脳裏に焼き付いて離れないその足で、
次に訪れたのがここ「平和祈念公園」だった。

広大な敷地面積を持つ公園内に、平和を願う各施設が
点在、日本軍の組織的闘争の終結した6月23日を
「慰霊の日」と定め、戦没者の遺族をはじめ各団体が
慰霊に訪れています。

平和の礎(いしじ)
沖縄戦の間に亡くなった全ての人の名を刻んだ刻銘碑が、
6月23日の朝日の方向を中心にして放射状に並んでおり、
米兵をはじめとする外国人も含め、軍人・非軍人を問わず
20万人以上の名が刻まれています。

終戦50年目の平成7年にあわせて建設、除幕式が
執り行われました。

沖縄県平和祈念資料館
2000年4月に開館した県内最大規模の平和資料館で、
沖縄の赤瓦で屋根をふいた建物になっていて、
館内では沖縄戦の悲惨な現実を大型スクリーンや
当時の街の再現を通して伝えています。

資料館前には実物の砲弾や、魚雷なども展示されて
おりました。

     [ 月曜休 大人300円・子供150円 ]

沖縄平和祈念堂
そして、沖縄戦最後の激戦地・摩文仁(まぶに)の丘に
そびえ立つ高さ45mの正七面体の塔は、
七つの海と合掌の形を模した平和祈念堂のシンボルで、
ひときわ目立つ建物になっています。

堂内には沖縄県出身の山田真山氏による、平和祈念像が
鎮座しています。


「前線基地」としての役割を負わされ、本土防衛のための
“時間稼ぎ”に使われた悲しみと苦しみの沖縄戦・・・
人と人とが殺しあう「戦争」は、時として敵と味方の区別すら
無くさざるを得ない。 

家族や親族、友人、恋人、一番大切な誰かを互いに殺しあう
凄惨さ・・・ 始まってしまえば、「軍人」も「非軍人」も「敵」も
「味方」も何もない。 それらの全てを「御国」の為に受け入れ
ざるを得なかった悲しい時が確かにあった。

そうした悲劇を再び繰り返さなくてはならないのか?
本当の「世界平和」の実現はいつの日か・・・

悲劇の舞台・沖縄

アジア・太平洋戦争が始まった頃から、航空基地あるいは本土防衛のための前線基地という位置づけが強まる。
                                 ↓
沖縄各地で民家や農地が強制収用され、日本軍の飛行場が建設されはじめる。
                                 ↓
1944(昭和19)年には、沖縄守備軍・第32軍が設置されて、沖縄諸島をはじめ先島(さきしま・宮古および八重山
諸島)などへ実戦部隊が送り込まれる。大部隊を迎えることになった地域では、兵舎として学校や民家はもとより、
食糧や家畜などあらゆる物資を提供しなければならなかった。
                                 ↓
10・10(じゅうじゅう)空襲。 北は奄美諸島から南は石垣島、東は大東島(だいとうじま)にいたるまでの南西諸島
全域を対象に米軍がおこなった大規模な攻撃。猛攻撃にさらされた那覇市は、市街地の90%が燃えつきたほか、
琉球王国時代の貴重な文化遺産を多数失った。この時の米軍機はおよそ1,400機、死者は約600人、負傷者約
700人にもおよんだといわれる。
                                 ↓
1943(昭和18)年から中等学校において軍事教練が強化。同年7月には東条英機首相が来沖、11月には女子
学徒を対象に看護教育がはじめられ、学徒動員体制が本格的に確立された。
                                 ↓
10・10空襲を受けたのち、学徒の戦争動員はますます激化し、生徒たちは疎開を許されないまま、学校をあげて
軍隊へ全面協力する体制が整えられていった。1945(昭和20)年2月には、中等学校および師範学校の男子生徒
は鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)に、師範学校をふくむ女子生徒はひめゆり学徒隊などの従軍看護婦隊に
編成され、戦場にかり出された。
                                 ↓
1945(昭和20)年に入ると米軍機の空襲がますます激しくなり、米軍の沖縄攻略は時間の問題となる。
                                 ↓
同年3月26日、ついに米軍は慶良間(けらま)諸島へ上陸。凄惨を極める地上戦がはじまった。
                                 ↓
慶良間諸島に配置されていた日本軍は、海上挺身隊と特攻隊が主で、地上部隊はほとんどいなかった。
米軍の不意の上陸になすすべのなかった日本軍は、山中の壕に逃げ込んで抵抗するのが精一杯で、特攻艇も
ほとんど破壊された。住民には、直接・間接に自決せよとの命令が出され、行き場を失い、米軍に言い知れぬ
恐怖を抱いていた人々は、家族や親戚ぐるみで互いを殺し合う「集団死」によって、命を絶っていった。
慶良間諸島において「集団死」で絶命した住民は、渡嘉敷島(とかしきじま)で329人、座間味島(ざまみじま)で
171人、慶留間島(げるまじま)で53人にものぼった。
                                 ↓
1945(昭和20)年4月1日、読谷(ヨミタン)・嘉手納(かでな)・北谷(チャタン)にまたがる海岸に無血上陸した
米軍は、二つの日本軍飛行場を占領。日本軍が何の抵抗もせず米軍の上陸を許したのは、当初は水際作戦を
計画したものの、兵力不足によって持久戦へと作戦変更を余儀なくされたためだった。
また、そうすることによって本土への米軍侵攻を遅らせ、本土決戦の準備を整えるというねらいもあった。
                                 ↓
米軍は、翌4月2日には東海岸に達して沖縄島を南北に分断し、さらに20日ごろには実質的に北部全域を占領。
                                 ↓
中南部へ侵攻してきた米軍に対し、沖縄守備軍は5月3日から数日間にわたって総攻撃をかけたものの主戦力
部隊の大半を失う大敗を喫した。 5月27日、沖縄守備軍は首里城地下の司令部壕を放棄して南部の摩文仁
(まぶに)への撤退をはじめるが、めざした南部のガマ(自然壕)にはすでに避難民が押し寄せており、そこでも
また、日本軍による壕追い出しや食糧強奪、住民虐殺がおこなわれた。
                                 ↓
沖縄守備軍の撤退作戦に対し、大田実司令官ひきいる小禄(おろく)飛行場の海軍部隊は行動をともにせず、
大田司令官は「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文を打って自決、部隊
は潰滅した。
                                 ↓
沖縄島南端に撤退し、最後の一戦にのぞんだ守備軍もついには敗れ、6月22日(23日説もある)の牛島満
(うしじまみつる)司令官と長勇(ちょういさむ)参謀長の自決により、組織的戦闘は終了した。しかし、その後も
各地で戦闘は続き、米軍が沖縄作戦の終了を宣言したのは7月2日、日本軍が公式に降伏文書に調印したのは
9月7日になってからのことだった。


引用サイト・沖縄県立博物館「沖縄の歴史」: http://museum.mm.pref.okinawa.jp/history/index.html

ひめゆりの塔、平和祈念公園と続いた「悲しみの沖縄」散策を
終え、時代に翻弄されつつも精一杯前を向いて歩み続けている、この地を実感しながら331号線を北上する。


沖縄旅行最終日のこの日、快速・テケテケ号との
別れの時も確実に近づいている・・・

道なりに見つけた奥武(おう)島の一周を、快速テケテケ号との
最後のイベントに設定した。


奥武島は玉城村と奥武橋でつながっている沖合い150mにある
小さな島で、島の周囲は1.6キロ程しかない。 

島の中心部にある奥武観音には、約370年前に漂着した
唐船の船員を助けたときに贈られた観音様が奉られています。

奥武島では、熱帯魚やサンゴなどの海中の世界を楽しむ事の出来る「グラスボート」も就航していて、
とても興味を引かれたが時間の都合もあって断念・・・ この地への再来の時を約束した。


2日間、ありがとう・・・
そして、とうとうこの時がやって来た・・・
快速テケテケ号との別れの時である。

北へ、南へ、二日間で300キロ以上の距離を
運んでくれた快速テケテケ号。

テケテケの移り気で無計画な行程に、従順に従ってくれた・・・
遥か南、沖縄の地での大冒険を存分に満喫させてくれた・・・

そして、たった二日間とはいえキズ一つ付く事のないように
停車中や夜間にまで気を使った、まさに我が同士。

沖縄の地との別れの前に、今旅行での
最高の友との別れの瞬間・・・
声にならない感情に包まれる。

ありがとう。 そして、さようなら・・・。

何度となく後ろを振り返りながら、テケテケは背を向けた。

・・・無生物とはいえ別れは辛い。

快速テケテケ号との別れ・・・

そしてテケテケは最後の帰還・・・

ここのホテルは、チェックイン時刻やチェックアウト時刻を定めず、
チェックインをした時間から丸々24時間を1日として扱ってくれるので、
テケテケの場合はこの日の3時過ぎがチェックアウト時刻という事に
なる・・・

ゆったりと最後の湯船につかり、ひと休みしていこう。

19時50分のフライトにはまだ時間もある・・・
1時間500円の延長料金を支払ってでも、沖縄での最後のひと時を
噛みしめたいのだ。

初めての沖縄、イントロダクションとしては上々の旅だった。

本島北部、離島の島々、青い魚に青い海・・・
またいつの日か、この地を訪れるターゲットを残しながら・・・

バースディ割特を機に、思いがけず果たした沖縄への旅。
幸先良好、今年も良いことありそうだ。(^o^)丿

大長編ページへお付き合い頂きましてありがとうございました。m(__)m

    
                   電車でゴー